ローマ信徒への手紙

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神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする

人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。

なぜなら、神について知りうる事がらは、

彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。

神の見えない性質、すなわち、

神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、

被造物において知られていて、明らかに認められるからである。

したがって、彼らには弁解の余地がない。

なぜなら、彼らは神を知っていながら、

神としてあがめず、感謝もせず、

かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。

彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、

不朽の神の栄光を変えて、

朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。

ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、

自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。

彼らは神の真理を変えて虚偽とし、

創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。

創造者こそ永遠にほむべきものである、アーメン。

それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。

すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、

男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、

互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、

そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。

そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、

神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。

すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、

ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、

また、ざん言する者、そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、

大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、

無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。

彼らは、こうした事を行う者どもが死に価するという

神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、

それを行う者どもを是認さえしている。

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「義人はいない、ひとりもいない。

悟りのある人はいない、神を求める人はいない。

すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。

善を行う者はいない、ひとりもいない。

彼らののどは、開いた墓であり、

彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、

彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。

彼らの足は、血を流すのに速く、

彼らの道には、破壊と悲惨とがある。

そして、彼らは平和の道を知らない。

彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。

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このようなわけで、ひとりの人によって、

罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、

こうして、すべての人が罪を犯したので、

死が全人類にはいり込んだのである。

というのは、律法以前にも罪は世にあったが、

律法がなければ、罪は罪として認められないのである。

しかし、アダムからモーセまでの間においても、

アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、

死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。

しかし、恵みの賜物は罪過の場合とは異なっている。

すなわち、もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、

まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、

さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか。

かつ、この賜物は、ひとりの犯した罪の結果とは異なっている。

なぜなら、さばきの場合は、ひとりの罪過から、

罪に定めることになったが、恵みの場合には、

多くの人の罪過から、義とする結果になるからである。

もし、ひとりの罪過によって、

そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、

まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、

ひとりのイエス・キリストをとおし、

いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。

このようなわけで、

ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、

ひとりの義なる行為によって、

いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。

すなわち、ひとりの人の不従順によって、

多くの人が罪人とされたと同じように、

ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。

律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。

しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。

それは、罪が死によって支配するに至ったように、

恵みもまた義によって支配し、

わたしたちの主イエス・キリストにより、

永遠のいのちを得させるためである。

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あなたがたは知らないのか。

あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、

あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、

死に至る罪の僕ともなり、

あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。

しかし、神は感謝すべきかな。

あなたがたは罪の僕であったが、

伝えられた教の基準に心から服従して、

罪から解放され、義の僕となった。

わたしは人間的な言い方をするが、

それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。

あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと

不法との僕としてささげて不法に陥ったように、

今や自分の肢体を義の僕としてささげて、

きよくならねばならない。

あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。

その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。

それは、今では恥とするようなものであった。

それらのものの終極は、死である。

しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、

きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。

罪の支払う報酬は死である。

しかし神の賜物は、

わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。

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